すぐれた作家というのは無数の読者から「どうして私のことを書くんですか?」といういぶかしげな問いを向けられる。
どうして私だけしか知らない私のことを、あなたは知っているんですか?
というふうに世界各国の読者たちから言われるようになったら、作家も「世界レベル」である。
どうしてそういうことになるのか。
村上春樹は世界中の人々に共通する原型的な経験を描いているのだろうか?
あるいはそうかもしれない。
でも、たぶんそれだけではない。
おそらく読者は物語を読んだあとに、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して、「既視感」を自前で作り上げているのである。
私は上に「私の頭の中の芦屋のことをどうして知っているのか?」と書いたけれど、もちろんこの「私の頭の中の芦屋」の造形には『風の歌を聴け』を読んだことがすでに関与している。
この物語を読みながら、私の中の「空想上の芦屋」のイメージは精密に彫琢され、そして、読み終えたときに完成した。そしれ、「あれ、この本に書いてあることって、オレの頭の中のイメージと同じじゃん」と思ったのである。
自分で脳内に置いたものを自分で発見して、びっくりしているのである。
マッチポンプである。
でも、これは凡庸な物語作家にできることではない。
現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。
そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。
「それまで名前がなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。
物語を読んだことを通じて、「『それまで名前がなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。
もし、村上春樹ではない、別の作家の別の物語が強い指南力を持った場合には、現代中国の若者たちは「それまで名前がなかった経験」に「孤独感や喪失感」とは違う名前をつけたはずである。
私たちは記憶を書き換ることができる。
そして、自分で書き換えた記憶を思い出して、「ああ、私のこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。
勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。
トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」病態のことである。
ある記憶の断片が、何らかの理由で、同一的なかたちと意味(というよりは無意味)を維持し続け、いかなる改変をも拒否するとき、私たちの精神は機能不全に陥る。
トラウマを解除するためには「強い物語の力」が必要である。
「同一的なかたちと(無)意味」を死守しようとする記憶の断片を、別のかたち、別の意味のものに「読み替える」力を私たちに備給するのは「強い物語」である。
私はもちろん『風の歌を聴け』を読む前に、現代の芦屋の風景について何も想像したことがなかった。
けれど、読み終えた後、私は「これは私がずっと想像してきた芦屋の風景そのままだ」と思ったのである(ほんとうにそう思ったのである)。
物語の中に「自分自身の記憶」と同じ断片を発見したとき、私たちは自分がその物語に宿命的に結びつけられていると感じる。
けれども、それはほんとうは「自分自身の記憶」などではなく、事後的に、詐術的に作り出した「模造記憶」なのである。
「強い物語」は私たちの記憶を巧みに改変してしまう。
物語に出てくるのと「同じ体験」を私もしたことがあるという偽りの記憶を作り出す。
その力のことを「物語の力」と呼んでよいと私は思う。
それだけが私たちを私たち自身のままであることに釘付けにしようとするトラウマ的記憶から私たちを解き放つのである。