つねづね申し上げている通り、本学のような規模の大学の場合には、120万人の高校生のうちの600人くらいが「行きたい」と行ってくれれば、それで教育活動を継続できる。それは志願者を「かき集める」必要がないということである。
必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。
よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根本のところの動機がわからなくなってしまう。
うちでやっているようなことはうちでしかできません。
という自負が教育機関には絶対に必要である。
そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きている価値がない」とフィリップ・マーロウは言ったが、それを借りて言えば「標準的でなければ生きていけない。個性的でないなら生きている価値がない」というのが私たちを引き裂く根本的な矛盾である。
だが、その矛盾に引き裂かれてあることこそ、私たち大学人の「デフォルト」なのである。
そのときに「標準的」に軸足を置くか、「個性的」に軸足を置くか、「生き延びること」を優先するのか、「生きのびるだけの価値があること」を優先するのか、私たちはしばしば決断を迫られる。
私はできることなら「生き延びるだけの価値がある学校」であることを優先させたいと思っている。
おそらく、その「価値」を認めてくれる人の数は決して多くないであろう(フィリップ・マーロウの「支持者」がきわめて少数にとどまったように)。
必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。
よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根本のところの動機がわからなくなってしまう。
うちでやっているようなことはうちでしかできません。
という自負が教育機関には絶対に必要である。
そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きている価値がない」とフィリップ・マーロウは言ったが、それを借りて言えば「標準的でなければ生きていけない。個性的でないなら生きている価値がない」というのが私たちを引き裂く根本的な矛盾である。
だが、その矛盾に引き裂かれてあることこそ、私たち大学人の「デフォルト」なのである。
そのときに「標準的」に軸足を置くか、「個性的」に軸足を置くか、「生き延びること」を優先するのか、「生きのびるだけの価値があること」を優先するのか、私たちはしばしば決断を迫られる。
私はできることなら「生き延びるだけの価値がある学校」であることを優先させたいと思っている。
おそらく、その「価値」を認めてくれる人の数は決して多くないであろう(フィリップ・マーロウの「支持者」がきわめて少数にとどまったように)。
