Artwork of Simonic Page.
Do you enjoy cubes and colors on posters? If so, this collection of artwork by Simonic Page is definitely for you! I’m a sucker for blue, so I picked it as my favorite, which one is yours? Thanks Looks Like Good Design!
そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。
子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。
生理的に快か不快か、それだけである。
それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。
現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。
それを空間的・時間的に拡大してゆく。
そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。
それが「だいぶ大人になった」ということである。
教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。
それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。
どうして私だけしか知らない私のことを、あなたは知っているんですか?
というふうに世界各国の読者たちから言われるようになったら、作家も「世界レベル」である。
どうしてそういうことになるのか。
村上春樹は世界中の人々に共通する原型的な経験を描いているのだろうか?
あるいはそうかもしれない。
でも、たぶんそれだけではない。
おそらく読者は物語を読んだあとに、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して、「既視感」を自前で作り上げているのである。
私は上に「私の頭の中の芦屋のことをどうして知っているのか?」と書いたけれど、もちろんこの「私の頭の中の芦屋」の造形には『風の歌を聴け』を読んだことがすでに関与している。
この物語を読みながら、私の中の「空想上の芦屋」のイメージは精密に彫琢され、そして、読み終えたときに完成した。そしれ、「あれ、この本に書いてあることって、オレの頭の中のイメージと同じじゃん」と思ったのである。
自分で脳内に置いたものを自分で発見して、びっくりしているのである。
マッチポンプである。
でも、これは凡庸な物語作家にできることではない。
現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。
そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。
「それまで名前がなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。
物語を読んだことを通じて、「『それまで名前がなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。
もし、村上春樹ではない、別の作家の別の物語が強い指南力を持った場合には、現代中国の若者たちは「それまで名前がなかった経験」に「孤独感や喪失感」とは違う名前をつけたはずである。
私たちは記憶を書き換ることができる。
そして、自分で書き換えた記憶を思い出して、「ああ、私のこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。
勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。
トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」病態のことである。
ある記憶の断片が、何らかの理由で、同一的なかたちと意味(というよりは無意味)を維持し続け、いかなる改変をも拒否するとき、私たちの精神は機能不全に陥る。
トラウマを解除するためには「強い物語の力」が必要である。
「同一的なかたちと(無)意味」を死守しようとする記憶の断片を、別のかたち、別の意味のものに「読み替える」力を私たちに備給するのは「強い物語」である。
私はもちろん『風の歌を聴け』を読む前に、現代の芦屋の風景について何も想像したことがなかった。
けれど、読み終えた後、私は「これは私がずっと想像してきた芦屋の風景そのままだ」と思ったのである(ほんとうにそう思ったのである)。
物語の中に「自分自身の記憶」と同じ断片を発見したとき、私たちは自分がその物語に宿命的に結びつけられていると感じる。
けれども、それはほんとうは「自分自身の記憶」などではなく、事後的に、詐術的に作り出した「模造記憶」なのである。
「強い物語」は私たちの記憶を巧みに改変してしまう。
物語に出てくるのと「同じ体験」を私もしたことがあるという偽りの記憶を作り出す。
その力のことを「物語の力」と呼んでよいと私は思う。
それだけが私たちを私たち自身のままであることに釘付けにしようとするトラウマ的記憶から私たちを解き放つのである。
365. Sadly, some things we love will never come back. The fedora is one of them.
(via rulesformyunbornson)
このヒトとは無理だと悟った瞬間25
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/ex/1140094857/
23 名前:恋人は名無しさん[sage] 投稿日:2006/02/18(土) 07:08:23
彼女『昨日ねぇ、~だったんだよー。』
自分「凄いなぁ、それでどうなったの?」
彼女『その後ね、えーとー、あーなんか話すのダルくなってきたからいいや。』
自分「え?教えてよ。」
彼女『いや、ダルいからいいよ。』
自分「教えてほしいなぁ。」
彼女『だから、ダルいから言うの面倒。』
自分「そっかぁ。じゃあいいや。」
彼女『・・・』
自分「そろそろ遅いし、寝るね。またメールするからね!おやすみー。」
彼女『は?なんか冷たくない?』
自分「じゃあどうしろと・・・?」
彼女『別に何も。』
いつもこんな感じ・・・
正直このままだと貴女の事が嫌いになりそうで怖いです・・・
24 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/02/18(土) 07:29:17
»23
俺の過去の経験からするとそういう女はお勧めしない
最終的に自分が消耗しきって終わることになる
25 名前:夢魔[] 投稿日:2006/02/18(土) 07:38:03
»23が普段、彼女の話をきちんと聞かないからということも考えられる
26 名前:恋人は名無しさん[sage] 投稿日:2006/02/18(土) 07:54:16
»23
彼女とまさに同じタイプw
デートの予定をたててる時とかに急にめんどくさくなる。もの凄くめんどくさくなる。
それで冷たくされると悲しくなる。
解決策は、甘やかすなw
29 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 16:48:36
「入れて」と言うのがやっとなのに
「何を?w」とか言われる。
仕方が無いので「コレ…。」って彼のモノを掴むんだけど
更に「”コレ”ってなあに?」とか言ってくる。
う~~~~~。
30 名前:恋人は名無しさん[sage] 投稿日:2006/04/12(水) 18:52:35
»29
みんな言わせようとするよね。
31 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 20:32:38
なんていえばいいんだろ
てぃんてぃん?
てぃんこ?
ぺに●?
難しいとこだよね…
選ぶ言葉によって萎えられそうw
32 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 20:46:40
ちんちんて言えばいいよ
彼も納得する
33 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 20:50:50
thx!
恥らいつつちっさいこえで
「…ちんちん…(>_<//)」
って言ってやります。
34 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 20:56:31
ほんとは全く恥ずかしくないよねー(・∀・)
36 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/12(水) 22:29:18
»34
(・∀・) ネー
43 名前:恋人は名無しさん[] 投稿日:2006/04/13(木) 00:10:17
»34»36
失望した
119 名前:名無しさん[] 投稿日:2006/09/12(火) 01:31:02
付き合ってしまえば別れがくる事
両想いになればあとは冷めるかマンネリになる事
出会えば、繋がりを持てば、死別や別れはかならず訪れる事
恋をするのは失恋の辛さを知るため
何にでも「幸せ」は始まってしまえば後は「当たり前」や「不幸」に変わってしまう事。。
何にでも「幸せ」や「始まり」の一歩引いた場所が傷つきもせず刺激が延長線上に延びている事
154 名前:名無しさん[] 投稿日:2006/09/17(日) 23:21:18
まあ、男は・女は・関係なく、妥協したら終わりだね。
関係を上手く続かせるために、みんな自分を殺しすぎなんだよ。
自分を殺してまで付き合うような相手なら、別れた方がマシってことだよ。
そういや以前どっかの塾講師系スレで
「塾講師やって一番つくスキルって、ツッコミだよな」という書き込みがあって
妙に納得した
心の病的無敵の人について
ひろゆきさんが「無職で社会的信用が皆無の人」を「無敵の人」とかつて言いましたが、現在「心の病的無敵の人」に振り回されて本当に困っている。
私が定義する「心の病的無敵の人」っていうのは、
- 会社が簡単に自分を解雇することができないと言うことを知っている
- 同僚は自分が悪者になりたくないって思ってることを知っている
- 自分が心療内科に通っておりその種の薬を飲んでいることを誰に知られても良い
ってかんじの人を指す。
具体的なことはかけないけど、周りは最大限気を遣ってるし、全ての仕事はまずその無敵の人がやりたい仕事を選び、残りをみんなで分けてやってる。しかも無敵の人が泣きわめいて仕事を放り投げたら残りのみんなで拾ってる。でまた泣きわめいてやっぱりやるって言ったら渡す。みんなちょっと不満はあるけど、ちょっと何か言うとすぐ深いため息ついて荷物をバーン!と自分の机においたりなんかして、その後その種の薬をボリボリこれ見よがしに食べ始めるから、怖くて近寄れずなにもいえない。
私を含めみんな、その人が悪いんじゃなくて病気なんだから、責めたり嫌ったりしちゃだめだ、って気持ちがすごくて、最近は心の均衡を図るために何とか笑いに昇華することを覚えた。この状況ネタになるよね、とかそういうことをひっそり言ったりすることで何とか、モヤモヤを回避している気がする。
でもまあ、あえて私が先陣を切って言うけど、ずるい。負の感情をパブリックにばらまくことのずるさ、ひどさを全くわかってない。
誰しも、負の感情や負の過去ってあるよ。公共の場で言ったりしないだけで、みんな何か抱えてる。
で、そういうのを分かち合うために、めんどくさいプロセスを経て打ち解ける親友を作ったり、親と食事に行って大人の関係を作ったり、彼氏つくったり、結婚したり、子供作ったりするんだと思う。私は明るく面倒見の良い人だと思われてるが、夫から見た私は別人だと思う。それは私から見た夫も同じだ。なぜならお互いに、負の感情や負の過去を知っているからだ。夫婦でいること、家族でいることはめんどくさいことが9割だが、負の受け入れ、昇華の環境として適していると考える。これは友情や恋愛感情も一緒だと思う。
それらのいわゆるめんどくさいプロセスを一切否定しておきながら、負の感情の請負を同僚にさせるのは間違ってる。私たちは会社に出会いを求めてきたんじゃなくて、仕事を求めてきてる。お互いに気持ちよい仕事をするプロセスを経て友達になるという場合はあるけど、あくまでプロセスを経て、であって、ただの同僚にそこまでの関係は無い。
って書いたけど、やっぱり病気なんだからしかたがないってことで我慢するしかないのかな。この text を 笹舟に乗せて、tumblr という川に流して、また明日から笑って過ごすことにします。
コメントしづらいですが、まず自分たちもいやなことあるからそれを受け入れるのは当然、って感覚は間違いで、その積み重ねが今の疲弊社会を生んでることは多分ある。病気と仕事に関しては産業医とかと相談じゃないんですかね?あとあいつが病気なおかげで楽な仕事を取ってるって発想自体も部署として終わってる気がします。むしろその人をうまいとこに配置して成果を上げさせてお互いWin-Winな関係を作るのが上司の役割とかじゃないんでしょうか。
おそらくこの種のコメントはあるだろうな、と思ってました。正論でいえばおっしゃるとおりなんですが、世の中産業医がいたり部署を作れたりうまいこと配置させる場所がある規模の会社ばかりではないことを是非ご理解いただければ幸い。とはいえ私が働いている会社は遅刻欠勤に関してとても寛大で、私も自身の病気や子供の病気の時も寛大な措置を頂いて、とても感謝してます。今までいくつか会社に所属してきたけど、こんなにありがたい会社はない、ってくらい良い環境です。
「自分たちもいやなことあるからそれを受け入れるのは当然」とは書いていないと思います。「自分たちも嫌なことがあるけど無関係の人にその気持ちをぶつけることはしていないのに、何故自分たちが理由無く負の感情をぶつけられなくてはならないのか」というジレンマを書いたつもりです。いつもよくわからないことで怒り、わめき、泣かれるので、こちらも困惑しているのです。怒り、わめき、泣かれるというのは比喩ではなく事実です。怒ると机の上に物をたたきつけ、人を部屋のコーナーに追い詰めてわめき、処理落ちするときは泣きます。悔し泣きってかんじではなく、わーんと泣く感じ?いずれにしても、全ての感情がだだ漏れってかんじです。
今こうして書いていて気づいたけど「私は会社に仕事をしにきてるのであって、なれ合うために来てない」って言いたいのかも。酷い言い方だけど、私も聖人君主じゃないし、心が強いわけでもない。「愛されたい!」って気持ちがバンバン出てるのはとてもよくわかるけど、正直それを受け止めるだけの関係性や度量のある人は会社にはいない。親や友達が手をさしのべるべきだと思う。
でこうやって文章にまとめると、なんかすごい自分が悪人のような、冷たい人間のような気がして本当に申し訳ないんだけど、助けてあげることはできない。彼女の「愛されたい!」って気持ち、受け止めたが最後、私の家庭や私の人生が崩壊するほどの威力がありそうだから。
教室で道学者じみた説教を垂れていた先生が、職員室にもどると、いきなり「素」に帰って、げへへと下卑た笑い声を上げる、というような「魔法解除」の装置がビルトインされているがゆえに、他では決して聴くことのできない「道学者じみた説教」を黙って拝聴し、かつその影響を受けずに済むというようなアクロバシーが可能になるのである。
学校は一種の劇場である。
そこで教師たちは「教師たちの役」を演じているのである。
そして「楽屋」の一部は必ずこどもたちに開示されている。
子どもたちは教師が「仮面」をつけ「衣装」をつけた俳優にすぎないということを知る。
だからこそ教師が教える内容は、どれほど過激であっても、どれほど間違っていても、子どもたちをそれほど深く損なうことはないのである。
もし「学校の虚構性」を構築している制度的装飾をすべてはぎとって、そこを例えば「教育商品と代価の等価交換」が行われる生の現実だというふうに提示すれば、子どもは取り返しのつかないかたちで傷つく可能性がある。
舞台の上のできごとを「100%の現実」と錯認する観客がどれほどの衝撃を受けるか想像すればよろしい。
学校の制度性・儀礼性・虚構性は子どもたちを「現実」から守るためにある。
大人たちが学校で何をしているのかよくわからない。この制度が何のためにあるのかよくわからない。
子どもたちはその「よくわからない」状態に長期にわたって置かれることによってはじめて健全な知的成熟のプロセスに載るのである。
私がそう言っているわけではなく、ジョン・ロックやトマス・ホッブズがそう言っているのである。
必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。
よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根本のところの動機がわからなくなってしまう。
うちでやっているようなことはうちでしかできません。
という自負が教育機関には絶対に必要である。
そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きている価値がない」とフィリップ・マーロウは言ったが、それを借りて言えば「標準的でなければ生きていけない。個性的でないなら生きている価値がない」というのが私たちを引き裂く根本的な矛盾である。
だが、その矛盾に引き裂かれてあることこそ、私たち大学人の「デフォルト」なのである。
そのときに「標準的」に軸足を置くか、「個性的」に軸足を置くか、「生き延びること」を優先するのか、「生きのびるだけの価値があること」を優先するのか、私たちはしばしば決断を迫られる。
私はできることなら「生き延びるだけの価値がある学校」であることを優先させたいと思っている。
おそらく、その「価値」を認めてくれる人の数は決して多くないであろう(フィリップ・マーロウの「支持者」がきわめて少数にとどまったように)。
